2022/07/27 20:03
30年以上ジャパニーズ・メタルシーンに君臨し続けるバンド、ANTHEMのリーダーでありベーシストでもある柴田直人氏(通称:直人っさん)との付き合いもかれこれ40数年になります。私が大手楽器店に入社する以前からの交流で、その青春時代の歴史はかなり濃厚なものです。ここではその“直人っさん”との奇想天外な歴史を数回に分け、「柴田直人というベーシスト」と称し少しずつ話していきたいと思います! まずは「出会い編」です。
1979年、高校生である私は地元の仲のいい女子二人と男の計5人でバンドを組んでおりました。地元は福生という東京の奥の方にある街で、横田基地が併設されていることから、中学生時代からROCKとの関わりは濃密だったのです。そしてそのバンドの練習が当時、国立にあった「クリエートイン」という練習スタジオで行われており、三多摩地区の多くのバンドがそこでリハーサルをしていました。
そのスタジオで、メンバーである地元の女子二人から「カッコいいバンドがいるから紹介するヮ」と言われたバンドこそが、直人っさんが在籍していたBLACK HOLEだったのです。初めて紹介されたとき直人っさん曰く、私はウンコ座りをしていたようで「いいバンドじゃん」と上から目線で話しかけたみたいです(苦笑)。ナメられてはいけないという表れなのでしょうが、実力人気共にこの頃から私どもとは比べられないくらい凄いものでした!
当時、三多摩地区には3つの凄いバンドがおりまして、一つはあのTKが在籍していた”スピードウェイ“、そしてジューダス・プリースト初来日公演のサポートを務めた“ハードロード”、そして”ブラックホール“です。その凄さがどのくらいなものかというと、これらのバンドが出演するコンサートはアマチュア(セミプロ?)でありながら、市民会館クラスでコンサートが開催できるほどの動員数を持っておりました。メジャーデビュー前に動員が凄かったというバンド伝説はよく聞きますが、アマチュアバンドがこの状況だったというのが凄いですよね!また、雑誌の取材も受け、特集を組まれることもありました。まさにバンドという文化が発展途上だったとてもいい時代です。
そこで3歳年上でありながら何故、特に直人っさんと仲良くなったかというと、影響受けているアーティストやバンドがほぼ同じと言っていいほど一緒でした。パープル(特にグレンヒューズ)、ジョン・ウェットン、ウイッシュボーン・アッシュ、レインボー等、音楽の話をするとドンピシャであったことが最大の理由だったと思います。なかでもウイッシュボーン・アッシュを好きなのは私の周りにはホンの数人しかおりませんでした!また当時私もベーシストであり、その辺も話が合ったいえるでしょう。(私、今はギタリストです、すみません/笑)
ブラックホールは当時のバンドとしては珍しく、この時既に1本のデモテープをリリースしております。メンバーはギター、ヴォーカルに自称ドイツ人クォーターのリオ。実は生粋の道産子です!ドラムにスティーヴ。こちらも金髪の道産子!そして同じく道産子の直人っさんと道産子の音楽レベルの高さにはビックリというところです。時代はハードロックが下火になりはじめ、パンクロックやテクノポップという新しいムーブメントが生まれる中、頑なにド派手な格好で、ド派手なハードロックを演っていたブラックホールを私も大好きになったのです。
この頃からバンドを通しての遊びに加え、プライベートでもよく遊ぶようになってきました。当時、直人っさんは中野にある洋館のような薄暗いアパートに住んでいました。私は福生に住んでいましたが共通の友達が国立に住んでおり、その友達が車を所有していたこともあって、夜な夜な中野まで出かけていき、直人っさんを誘い(拉致?/笑)遊びに出かけたものです。こんなことを毎週のように行っていたのがとても懐かしいです。なかでも国立にあった「サッポロ」という中華料理屋にスタミナ丼をよく食いに行きました。実はこの店が後のあの有名なスタ丼店の元祖店舗だったのは後でわかることです。
1979年になるとブラックホールの活動はさらに加速し、月一くらいに行うスタジオライブに加え、「A ROCK」等のコンテストへ出場したり、大がかりなホールライブも行われるようになります。当時は大学生であった直人っさんはほとんど大学には足を運ばず、バンド生活真っ只中。そして夜な夜な高校生の俺たちと遊んでいるという、今考えたらなかなか恐ろしい生活を続けていたと思いますね。自分のこんな生活をよく親が許していたと、今ではとても感謝している次第です。
1980年になると私は大手楽器店へ就職が決まり、そしてブラックホールの活動にも少し陰りが見えてきます。この辺のことは次回、「変革編」でお話ししたいと思います!